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狩(か)りや漁(りょう)から米づくりへ

[2010年3月18日]

ID:1128

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1.狩りや漁のくらし

 今から1万年ほど前から、人々はねん土で鉢(はち)などの土器(どき)をつくって、食料(しょくりょう)をにたり、たくわえたりするようになりました。はじめのころ見つかった土器に縄(なわ)のもようがついていたため縄文(じょうもん)土器とよぶようになりました。縄文土器がつかわれた時代(じだい)を縄文時代とよびます。

 貝や木の実を集めたり、石や骨(ほね)などでつくった道具でけものや魚をとったりして食料にしましたが、けものをとらえる狩(か)りは、何人もの人が力を合わせて働き、食料はみんなでわけたようです。また、同じ場所に長く住んでいて食料が少なくなると、人々は食料の多いところをさがしてうつっていきました。

 

 今から8000年ほど前には、びわこの岸(きし)で縄文土器が見つかっています。東近江市(ひがしおうみし)ではありませんが、同じようにびわこにちかいところから、縄文時代の丸木舟(まるきぶね)が見つかり、この時代の人々が丸木舟をつかってびわこを行ったり来たりしていたことがわかります。また、貝(かい)をとり、たべたあとの貝がらをまとめてすてた貝塚(かいづか)も見つかっています。

 東近江市種町(たねちょう)では、今から4000年ほど前に人々がすんでいた家のあとや、食料をのこしておくためにほった穴(あな)、まわりに柱(はしら)をたててまつりをしたあと、さらにはお墓(はか)のあとなど、人々のくらしたあとやそのころのものが見つかっていますが、これを遺跡(いせき)とよびます。

↓種町の正楽寺(しょうらくじ)遺跡

まわりに柱をたてたまつりのあと

ねん土でつくられたお面(めん)


★東近江市山路町(やまじちょう)にある埋蔵文化財(まいぞうぶんかざい)センターでは、縄文土器やお面、人の骨がのこるお墓のあとなども見られますので、ぜひ見に来てください。

2.米つくりのはじまり

 今から2300年ほど前になると、米をつくる人々が、中国(ちゅうごく)や朝鮮半島(ちょうせんはんとう)から北九州(きゅうしゅう)にわたってきました。米つくりは、まもなく東日本にもひろがりました。

 米つくりがはじまると、人々のくらしも大きくかわりました。米は、毎年同じところでつくることができます。そこで人々は、水田(すいでん)のつくりやすいところに住みつき、むらをつくりました。むらでは、水路(すいろ)づくりや水田の手入れ、刈(か)りとりなど、人々が力を合わせておこなうしごとが多くなり、そのさしずをするかしらが生まれました。むらのかしらは、しごとのさしずのほかに、戦(たたか)いのさしず、まつりごとのさしずをしたりして、むらを治(おさ)めていたようです。

 

 滋賀県(しがけん)では、びわこの岸(きし)べで、今から2300年ほど前の人々のくらしのあとが見つかっていますが、近江八幡市(おうみはちまんし)から東近江市(ひがしおうみし)にかけて、昭和(しょうわ)39年にはじまった、びわこを干(ほ)して水田にする工事(こうじ)で、2000年ほど前の水田や水路(すいろ)あとや、木をけずってつくったスキ・クワなど、水田をたがやす道具(どうぐ)がたくさん見つかりました。この米つくりをおこなったむらのあとを大中(だいなか)の湖(こ)南遺跡(いせき)といいますが、こののちこういったむらが日野川(ひのがわ)や愛知川(えちがわ)をさかのぼってふえていきました。

 これらの遺跡では、水田あとや家のあとのほか、方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)という、まわりをほった土を真ん中につみあげたお墓(はか)がいくつもつくられます。土をほってうめる土葬(どそう)もありますので、米つくりのむらには、死んで葬(ほうむ)られるお墓にちがいがあったことがわかります。

↓近江八幡市大中の湖南遺跡<『滋賀県文化財学習シート史跡名勝天然記念物編』からの転載>

畦(あぜ)や水路に打(う)たれた矢板(やいた)と杭(くい)

木製農具(もくせいのうぐ)の未成品(みせいひん)

↓東近江市内堀(うちぼり)遺跡の方形周溝墓群

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