■記号は、時=時間 場=場所 問=問い合わせ IP=IP電話 特集 戦後70年 平和について考える 東近江市と戦争 写真=竹やり訓練  写真ー学徒動員による飛行機整備作業 【いずれも市内で撮影、滋賀県平和祈念館所蔵】  今年は、戦後70年という節目の年です。  国中が戦争に巻き込まれる中、国を守るため、国民を守るため、多くの若者が戦地へ送り出されました。残された女性や子ども、高齢者は、食糧難のため食べ物も満足に口にできない中で、田畑を耕し、軍需工場で働き、耐え忍ぶ生活が続きました。  県内には、戦争との関わりが深い場所があります。今はその姿を想像することすら難しいですが、かつて本市には陸軍八日市飛行場が存在しました。本土が空襲に襲われるようになると、飛行機を守るため、布引丘陵に掩体壕がいくつも作られました。また、能登川地区には軍需工場が立地していたことから、飛行場や軍需工場を目標に戦闘機が来襲し、機銃掃射を加えました。こうしたことから、市内では幼い子どもを含む犠牲者が出ています。その一方で、都会から子どもたちが疎開してくるなど、本市を取り巻く生活の変化は大きいものでした。  今回、本市で当時の苦難を経験された人の体験談をご紹介します。 ■食糧難の中での農作業で、「死」が身近に  私が国民学校(※現在の小学校や中学校)に通っているときに、戦況が悪化しました。食糧難がひどくなり、国から作物の供出が村に義務付けられ、そこから各戸に割り振られました。軍備の充実にあてられるため農機具はなく、農作業はすべて人の力で行いました。5、6月に田植えをし、秋の収穫後に麦や菜種を植え、その収穫後にまた田植えをするという繰り返しで、休日だけでなく、農繁期は学校を休んで、家族みんなで農作業をしました。学校でも次第に授業に替わって校区内で農作業を手伝ったり、クワを担ぎ、笹が茂った雑草地を開墾したりしました。とにかく「食料を」ということで苦労しましたが、実際に口にするものは粗末で、学校に持っていくお弁当は、大根の葉でかさ増しした麦飯でした。  農作業をしているときに、ふと空を見上げると、編隊を組んだアメリカ軍のB29(※当時日本に襲来した大型爆撃機)が飛行機雲をひきながら飛んでいく姿がよく見られました。ある夜、鈴鹿の山を越えた三重県が爆撃された時、山の向こうが燃え盛るように真っ赤になった光景を鮮明に覚えています。  幸いにもこのあたりはB29による焼夷弾(※家屋などを焼き払うため使用された爆弾)の爆撃はありませんでしたが、近くに戦闘機が飛んできて爆弾を落とすことがありました。500メートルほど遠いところに落としたようですが、防空壕の中にいても、地震が起きたかと思うほど地面が揺れ、爆風で家の戸が開かなくなるほどでした。また機銃掃射にも襲われ、爆風で田畑が裂かれたようになりました。近くの田んぼで農作業をするだけでも、「死」が身近にあり、とても怖かったです。  村の男性が軍から召集されたとき、最寄りの駅まで名前が入った旗を持って送り出しました。そして遺骨が帰ってきて、迎えるのも同じ駅でした。国や国民を守るためとはいえ、立派に育った息子を送り出す母親の気持ちはいかばかりだったか、想像すると言葉を失います。  当時からすると、こんなに平和な時代がくるとは思いもしませんでした。希望や幸せを辛抱するしかないみじめな思いを、繰り返してはいけません。 羽泉 久子さん(84歳) ■学徒動員が始まり、食糧増産のため内湖を干拓  八日市中学校(※八日市高等学校の前身)に入学ししばらくすると、お国のためにといった教育が強くなりました。海軍の予科練(※軍の訓練学校)などのような学校を後に受験しない人は、非国民であるかのような雰囲気でした。学校では、1年2組とか言わずに、学年が中隊、組が小隊で、第一中隊の第二小隊と言いました。ときに本物の銃や模擬銃を肩に担いで、夜間に軍歌を歌いながらまちを行軍したこともありました。  3年生になってから、学徒動員が始まり、食糧増産を目的に宿舎に泊まりこんで能登川の内湖の干拓を行いました。午前5時半に起床し、6時半に朝食、7時に宿舎を出発し、8時ごろに到着してからすぐ作業にかかりました。昼食を挟んで午後4時に作業が終わり、宿舎に戻って6時に夕食をとり、その後自習をして9時半に消灯でした。朝の点呼のときは、宮城遥拝といって、皇居の方角を拝みました。故郷遥拝もあり、親がいる方角にも向かって拝みました。ほぼ毎日泊り込みですが、日曜日だけたまに家に帰ることができ、授業はこの日の午前中にあったくらいでした。  内湖にはアシがたくさん生えていて、それを刈って水路を掘りあげるのですが、アシは竹みたいに硬く、そして臭い。どろどろしていて、けがもするので、とてもつらかったです。また、作業をしていると履いている地下足袋などが濡れ、それを明くる日も履かないといけないこともつらかったですね。特に寒い日は、疲れて休みたいけど、休んでいると寒くなってくるので、みんなバタバタと足踏みしながら休んでいました。  干拓には神崎農学校(※旧神崎商業学校、今の八日市南高等学校の前身)などの生徒も来ていました。また伊庭の収容所の捕虜が作業しているのがかすかに見えました。  8月15日に終戦を迎え、八日市の駅で軍隊の人が一等兵や二等兵などといった肩章を取っている姿を見ました。やれやれと思ったのか、残念と思ったのか、どういう気持ちだったんでしょうか。 川越 孝一さん 記憶の湖(うみ)第三巻より ●無言で語る 戦争の史跡  本市には、戦時の面影を残す史跡が点在しています。取り残された陸軍八日市飛行場の施設の一部、小学校に残る機銃掃射の跡、亡くなった人を弔う碑など。今はひっそりとたたずんでいますが、その姿は、当時の様子を無言で語りかけているようです。 写真=陸軍八日市飛行場の格納庫【滋賀県平和祈念館所蔵】 ■学徒動員による干拓の碑  学徒動員で内湖の干拓を行った元生徒の皆さんが平成19年3月に建てた記念碑です。(伊庭町地先) @弾痕が残る石  当時御園小学校は兵舎として使用されており、機銃掃射に襲われました。現在も被弾痕のある石が残っています。 A飛行場正門跡の石碑  商業施設の片隅に残された飛行場の正門跡です。当時はこのあたりまで鉄道が敷設されていました。 B冲原(おきはら)神社と陸軍飛行隊兵舎の門柱  冲原神社は、飛行隊の守護神社として創建されました。敷地内にある門柱は、かつての陸軍飛行隊兵舎の衛門を移築したものです。 C掩体壕   飛行機を隠し、空襲から守るための施設です。コンクリート製や土製のものなど17基が残っています。 D殉国の碑  地元戦死者を弔う碑です。ラジオ体操からの帰り道に機銃掃射で犠牲となった8歳と3歳の幼い兄弟の名前も刻まれています。 地図=@〜Dを示した市内の地図 ■今の生活から昔を振り返る  私たちは今、物が豊かで、食べ物に困らない「平和」な生活をしています。少なくとも、飢えをしのぐといったことや、強制的に戦地におもむくといったことはないでしょう。しかし、そのような平和で豊かな生活は、戦争の時代の苦難を耐え忍び、そして戦後の復興のために立ち上がった人々の努力と辛苦のうえに成り立っています。 ■戦争を伝える  戦争の記憶は薄れ、形あるものは失われつつあります。戦争の悲惨さや苦しみを、世代を超えて伝えていくことは大切なことですが、同時にその難しさにも直面しています。  まずは、食卓を囲みながら、おじいちゃん、おばあちゃんの話を聞いてみてください。あるいは、この夏に戦後70年を記念し開催される企画展や、体験教室などに出かけてみてください。この国で、そして東近江市で「たった70年前」に起こっていたことを知り、当時の人々の思いに心を馳せることで、今の平和な生活を大切にできるはずです。 ●黙とうにご協力ください ・8月6日(広島)と9日(長崎)は原爆が投下された日 ・8月15日は終戦記念日  戦争で犠牲となられた多くの人々に哀悼の意を表し、世界の恒久平和の実現を祈念するため、ケーブルテレビの音声告知放送と公共施設のサイレンの1分間吹鳴により、黙とうを呼びかけます。 時=8月6日(木)…8:15 8月9日(日)…11:02 8月15日(土)…正午 問=総務課 電話=0748-24-5600 IP=050-5801-5600 ●滋賀県平和祈念館 企画展示「滋賀県民の15年戦争」  終戦から70年を経た今年、戦争が滋賀県民にとってどのようなものであったのかを振り返ります。  同館所蔵の資料から、出征や凱旋を祝うのぼりや、戦意高揚のため配布されたチラシなどを解説とともに展示しています。 時=9月27日(日)まで 午前9時半〜午後5時 ※入館は午後4時半まで 【休館日】月、火曜日(祝日にあたる場合は開館、7月20日〜8月31日は無休) 場=滋賀県平和祈念館 ■関連イベント 8月13日(木)の主な行事 戦争体験を聞く会「14歳で死を覚悟した終戦の夜」など 8月14日(金)の主な行事 戦争体験を聞く会「大戦中の不思議な出会い、めぐりあわせ」、映画上映会「沖縄 最後の死闘 苛烈の極み、本土唯一の地上戦」など 8月15日(土)の主な行事 戦争体験を聞く会「戦時中の女学生のくらし」、平和セレモニー、平和朗読会、戦時食体験、平和のあんどん点灯 など ※時間など詳しくはお問い合わせください。 問=滋賀県平和祈念館 電話=0749−46−0300 ●滋賀県民戦争体験談集シリーズ 「記憶の湖(うみ)」  滋賀県では、平成9年度から戦争体験談を掲載した滋賀県民戦争体験談集シリーズ「記憶の湖(うみ)」を発行しています。現在第9巻まであり、平和祈念館のほか、主に各図書館で閲覧できます。本市在住者の体験談も多数掲載されています。