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明治~昭和前期 新しい日本の歩み(1)

[2010年3月18日]

ID:1133

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新しい日本の歩み(1)

新しい村の誕生(たんじょう)

 武士の時代がおわって、新しい時代になりました。明治(めいじ)時代です。世の中のしくみもどんどん新しくなりました。人びとがくらしていた村にも、いろいろな変化(へんか)が出てきました。前の江戸(えど)時代には、ひとつひとつの集落(しゅうらく)を「村」と呼んでいましたが、いくつかの村をまとめて、新しい「村」としたのも変化のひとつです。

 このとき、今の東近江市内(ひがしおうみしない)に22の村とひとつの町ができました。村は、東小椋(ひがしおぐら)・角井(かくい)・西小椋(にしおぐら)・東押立(ひがしおしたて)・西押立(にしおしたて)・豊椋(とよくら)・山上(やまかみ)・市原(いちはら)・南五個荘(みなみごかしょう)・北五個荘(きたごかしょう)・東五個荘(ひがしごかしょう)・八条(はちじょう)・八幡(やわた)・栗見(くりみ)・中野(なかの)・玉緒(たまお)・市辺(いちのべ)・平田(ひらた)・建部(たてべ)・御園(みその)・朝日野(あさひの)・桜川(さくらがわ)が、そのときの村の名前です。そして町は八日市町でした。今でも、よく聞(き)く名前もあります。

八日市飛行場(ひこうじょう)

 1914年(大正(たいしょう)3年)、荻田常三郎(おぎた つねさぶろう)という人が、今の八日市南高校付近(ふきん)から飛行機(ひこうき)に乗って飛び立ちました。そのころの人びとにとって、飛行機はほんとうにめずらしいものでした。地元(じもと)の人たちは、これを利用して町をにぎやかにしようとしました。飛行機の学校をつくろうとしたのです。飛行場にする土地を買って進めていこうとしましたが、なかなかうまくいきませんでした。

 ちょうどそのころ、日本で三番目となる軍隊(ぐんたい)の飛行場をつくる話がありました。そこで人びとはこの飛行場を、八日市につくるように運動をしました。その結果(けっか)、1922年(大正11)陸軍(りくぐん)八日市飛行場が誕生しました。

 アメリカなどと戦った太平洋戦争中(たいへいようせんそうちゅう)には、大事な役割(やくわり)を持つ飛行場であったため、敵(てき)の攻撃(こうげき)を受けることもありました。そして、戦争が終わって飛行場はなくなってしまいました。しかし、布引運動公園(うのびきうんどうこうえん)のあたりには、今も掩体壕(えんたいごう)という敵の攻撃から飛行機をかくすための建物が残(のこ)っています。

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