織田信長の朱印状が発見されました

令和4年度から森の文化資源調査の一環で百済寺(住職・濱中亮成)の古文書調査を実施していたところ、昭和4年(1929年)刊行の『近江愛智郡志(おうみえちぐんし)』に掲載され、それ以降行方がわからなくなっていた織田信⾧の朱印状を発見しました。
同史料は、百済寺所有の古文書約1,000点の中から発見されたもので、永禄11年(1568年)9月22日に、織田信⾧が百済寺に対して出した条々(掟)です。
永禄11年9月13日、六角氏の居城観音寺城を手中にした信⾧は、周辺地域の攻略、制圧地域の平定に努め、その中で9月22日に百済寺へ条令を発しました。

内容は、(1)百済寺の諸事、寺法の保障、(2)寺の財産の保障、(3)百済寺を信⾧の祈願所とする、の3条で構成されています。
書状左下の「弾正忠」は、当時信長が名乗っていた官位で、その下に「天下布武」の朱印が押されています。
古文書の紙質は楮(こうぞ)紙で、大きさは縦31.0センチメートル、横43.6センチメートルです。
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天台宗湖東三山釈迦山百済寺公式サイト(外部リンク)
百済寺のホームページもご覧ください。
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