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人と自然を考える会
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地元学をはじめよう その2

「記録映画で地元学」 

 記録映画「椿山 焼畑に生きる」上映会と対談

(2006年10月7日(土) 永源寺公民館ホール)
講師:姫田忠義 小貫雅男

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姫田顔写真 ○姫田忠義 氏(ひめたただよし:民俗映像学者)

1928年、神戸市和田岬生まれ。民俗学者・宮本常一氏に師事。1961年ごろから日本人の生活を基礎から見つめ直す作業に着手し、映像による民族文化の記録活動を開始。’76年民族文化映像研究所を設立。一貫して少数民族や山人など地域の民衆の生活を追い続ける。‘89年フランス芸術文学勲章オフィシェール受章。「越後奥三面―山に生かされた日々」でシカゴ国際映画祭ドキュメンタリー部門銀賞受賞等。東京都在住。


姫田顔写真 ○小貫雅男 氏(おぬきまさお:滋賀県立大学人間文化学部名誉教授)

1935年旧満州・内モンゴル生まれ。滋賀県立大学人間文化学部名誉教授。専門は、モンゴル近現代史、遊牧地域論。多賀町大君ガ畑で里山研究庵Nomad主宰。

主な著書:『菜園家族レボリューション』(現代教養文庫、2001年)、『森と海を結ぶ菜園家族 −21世紀の未来社会論−』(共著、人文書院、2004年)など。
映像作品:『四季・遊牧 −ツェルゲルの人々−』(共同制作、大日、1998年)。

山の可能性をさぐる〜記録映画&対談
姫田忠義 × 小貫雅男

姫田:こんにちは。今見ていただきましたフィルムについての若干のコメントをさせていただきます。このフィルムはできあがってからもう30年経ちました。その間に日本の社会的な状態っていうのは激変しておりますし、最近また日本は大きな転機に来ているんじゃないかと思います。

 特に、どういう転機に来ているだろうか。これはなかなか膨大な話でありますから、一言で言えるもんじゃないと思いますけれど、あえて私なりに申し上げましたら、たとえば椿山の人たちが教えてくれる、あの自然の中でいかに人は生きるか。その時にどんな、あえて言えば、精神文化を培っているか。そういうことが大きく問われている時代のように思います。

 おばさんが最後の方でもおっしゃっておりましたですね。「ヒエの俵はなんで崩せないの?」って。「もったいない」って。あれ? どっかで聞いた話ですね。「もったいない」というのは、最近滋賀県の大問題になったじゃないでしょうか。

 その「もったいない」っていう発想法は、いろんな位相といいますか、感じ方、側面から言えると思いますけれど、あの方のおっしゃっているのは、次の言葉を補足して考えますと、さらに意味の深いものになりやせんかと思います。おっしゃった後にですね、「これをまた食べる時代が来ちゃあなりませんが」と言うんです。「来ちゃあなりませんが、これからの若い世代はよう処理して食べませんぞな」って。「よう食べんぞな」って言ってるわけです。若い世代、次の世代を馬鹿にしてるんじゃなくて、ものすごい願いを込めていられるんですけど、「食べられないだろう、でも大事よ」と言ってるように思えるわけです。

 時代の移り変わりというものをよくわきまえながら、しかも生き延びていくというか、生きるということはどういうことか、ということを痛切に体験なさった方の言葉のように私には思えるわけです。

 これは私自身の体験のみではなくて、たとえばこういうエピソードがこのフィルムにまつわって生まれております。実はこのフィルムを通じて、焼畑を実際自分たちの生活の場で実現しようという思いの若い世代の人たちがあちこちで生まれております。現に今日福井県から若い世代の人たちが駆けつけてきておられます。これは、この映画を見て、福井の隣の美山町という山村でもう十数年になります。ちょっとお二人立っていただけますか? ご紹介します。

 非常に具体的な、後継者というのは、直接自分の息子がやるというのも後継ですし、直接自分の教え子がやるっていうことも、大学の先生ですからそれも後継者でしょうが、学生たちがですね、同時に成人している人でも、それをヒントとして自分が生きる力にしていくという、そういう後継のあり方、継ぎ方というものがあるんじゃないかということを教えられるわけです。

『椿山』が復活のきっかけとなった周防猿回し

 さらにまた、飛んだ例をもう一つだけ申し上げさせていただきますが、私どもの研究所、1975年からですけれども、『周防猿回しの記録』という、猿回し芸の復活運動の記録をいたしました。その一番最初にですね、山口県の猿回しを復活させようという願いを持った方々から声をかけられたわけで、山口に参りました。その時に、このフィルムを実は持って行ったわけです。

 つまり、私の証明をする、ぼくは何をしとるかということを証明っていうか、知っていただくという意味で持っていったんですね。そうしましたら、そのリーダーの村崎義正という方が中心人物でしたが、こうおっしゃったんです。ちょっと迷ってはいたけれど、猿回しの後継者第一号に自分の息子、四男坊ですけれど、テレビで有名になった太郎と二郎のコンビの猿回しの、あの太郎君なんですけれど、彼が高校三年生の時に、この子を後継者にすると思い定めたとお父さんがおっしゃったわけです。

 どうしてかというと、「わしらは非常につらいつらい思いをしてきた」と。と言いますのは、猿回しは身分差別問題で、非常に強烈な差別社会の中で生き延びてきた伝統的な芸能であります。大道芸であります。これはみなさんもご存じであろうかと思いますし、これ以上のことを申し上げませんけれども、そういう社会的な歴史を背負っている芸能、伝統文化の担い手と言っていい、あるいは生活者と言っていいわけであります。

 その方が、「わしはつらいと思ってきたけども、この椿山の人たちの暮らし方を見ているとわしらの生活なんてまだつらいと言えない。にもかかわらず、この人たちはつらいと言わない。その性根のすごさにわしらは打たれる。それで、よし、後継者を決める、と思ったのは、もう後にひかんぞという意味だ」、というわけです。これで成功するか。猿回しの芸は自分たちがやったことも経験したこともない、自分たちの親父以上の人たちはまた差別されるからということで一切口を閉ざしてしまっている。その中で復活をさせるんだ、したいと。先祖のやってきたことを、命を賭けてやってきたことを闇に葬るわけにはいかないんだと、そういう思いで村崎義正さんたちは始められたわけですね。その中核になる後継者第1号に自分の子どもを据えるという思いを定められたわけで、それの元になったフィルムというわけであります。フィルムというのは、一つの姿でありますが、それを通じていろいろ感じ考えるというようなことができるものかなと思いますけど、まあ、そういうことがございます。

 もう一つだけ最新のレポートをさせていただきます。この村がご覧になりましたような、あの時期、1970年代の半ばですけれども、あの時期に本格的に焼畑をやっていたのは、もうここと山形県と新潟県の県境地帯の海辺に一つ、渥美カブというカブをつくっていた地域、今でもつくっている地域がありますけれど、そこも本格的にやっているわけです。ただしここのような多彩さはなかったと私は思いますが。それから、もう一つは九州山地ですね、九州山地の椎葉村はひえつき節で本当に有名な所でありますけれども、私が1960年代に椎葉に行った時にはほとんど行なわれておりませんでした。ただし、こういうふうに復活がご自身たちで行なわれておりました。

 「それはどういうことで」と聞きましたら、観光客が来るようになって、ひえつき節のヒエってどんなもんだと聞かれると言うんですよ。歌の文句にあるヒエというのはどういうものかと聞かれる。そうすると、椎葉にない。こりゃいかんというわけでヒエをやり始めたと。そういうことを私は直接うかがいました。

 椎葉の南側に米良という地域があります。ここはこつこつと今でも持続させておられる人がいますが、ここもほとんどもう危ないです。観光用にもできませんし、持続していた姿がつい最近消え始めております。

 この椿山の場合に、この2月に椿山の区長さんにお会いしましたが、「椿山も姫田さんが記録を取ってくれた頃は30軒、そして人数で5、60人はいた。けども、今は6軒17人になった。17人は全部年寄りだ。姫田さん、あんたも年寄りになったなあ」いうて言われたんですけど。それで僕はまあ7月の暑い盛りの時期でありましたけれど、スタッフと共に参りまして、ある撮影をいたしました。そんなことで、この集落も実はこの記録をいたしました頃に私は一つの予測というか、考えざるをえない時代でしたものですから、考えたことがあります。それはいつまで続くだろうかなということでありました。あと10年続くかなというのが僕の心の中での考えというか計算でした。

 それはどういう意味でかというと、3つ理由がありまして。一つはスギ・ヒノキの植林が進んで山焼きをする、焼き畑をするという場所がものすごく狭められてしまってきていたということが一つです。それから、人数が、労働力が過疎化でどんどん減っていったということであります。もう一つは人間の意志の問題であろうと思います。一人になってもやり抜くよということもありうるかと思います。人間の生活、我々の生活の中にはですね。ただし、社会的な集団として生きていくということは、一人の志とはまた違う面がありますから、そこを考えなきゃなりませんが、でも、集団といえども一人一人なわけで、その一人一人の思い、志、性根が集団に反映するわけであろうと思いますので、その時に「いや、俺はどんなことがあってもやるよ」というふうに考える一人一人がおれば、ある持続力の元であろうと思うんですけれども。

 この椿山の場合にも、おばさんたちの話にもみなさんのお姿にも表われておりますように、いろんな困難はあるけれども「これやるのがあたりまえだよ」、あのおばさんがおっしゃっていましたけれど、「職業ですきに」って。これはちょっと後で山村論の問題で言いたい、本当に一つの重要な手がかりの一つなんですけど、そういう言葉をおっしゃっていましたですね。

 聞こえ方はいろいろあると思いますけれど、僕にはもう衝撃的でしたね。「職業ですきに」って言われて。一般に山村は不便な所だからという感覚が特に都市生活者の面から、あるいはかつての時代で言えば、これはお会いしたこともありませんし、歴史的な過去の人の話をするのは申し訳ないような話なんですけど、昔の都の人たちは、あるいは都市生活者たちは、町の人たちもそう思ったかもしれませんですね。「山っていうのは不便なんだよ、不便な所にいるのは、普通の人間じゃないんだよ」というぐらいの思い、イメージ、認識を持っていたかもしれません。

 でも、私は今日までひたすら主として山の村を歩くことが本当に多うございました。なぜかと言うと、日本は山国だからです。私の友人の本多勝一という朝日新聞の記者であった人に、かつてベトナム戦争の後でこういう話を親しくする中でしたことがあります。

 「姫田さん、俺ベトナムから帰ってきた。これから日本をやり直すよ」と言うわけですね。で、半年後に彼はこう言いました。彼は一人でジープで走りまわってきたわけですが、「日本て広い。いや、長いね」と。日本ていう国は広いと最初に言ったんですけど、言い直したんですよ、長いねという言い方に。そりゃそうですよね。でこぼこあるし、水平方向にも入り組んでいるし、垂直方向にはものすごい。そういう地勢である。要するに地震国だなどと言われておりますけど、断層地形ですから、ヨーロッパ大陸のような、氷河がくしけずったようなU字形のおーとしたようなそんな世界じゃないですから、こんな世界の連続ですから。それを数えていったら、数量化したらどれだけの長さになるのか。その長さが実は焼き畑の面積。斜面見てましても、ご覧になってあらためて「お、ずい分できてるな」というふうにお思いになりませんでしたでしょうか。地面が斜めになっておりますけれども、そこの持っている生産力というものが感じられるかなと思いますけど。長いなということは、つまりは、豊かだなという言葉となんというか通じていくんじゃないかと私は思います。

 特に日本の場合はこれだけの草木を養ってくれる地球上の立地条件でございましょうから、生産力、キャパシティを大きく持っていると思うんです。後ほど、小貫先生は、乾燥地帯の、モンゴルの世界をよくご存じの人だから、それと対比してどうだろうねということを是非おうかがいできればと思うんでありますけれども。そんなことで、日本の山の村の持っているキャパシティ、それから性根といいますか、精神文化の深さというものを学び続けているわけであります。その一つの典型的な場所がこの椿山でございました。私の方からまずこれだけの。先生はご覧いただいてなんか…

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