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地元学をはじめよう その2 「記録映画で地元学」記録映画「椿山 焼畑に生きる」上映会と対談 (2006年10月7日(土) 永源寺公民館ホール)
体験値と歴史認識の力姫田:若い世代もね、10代の後半とか、自分が意識して暮らすようになって、つまり小学校の高学年、5、6年生の頃からずい分意識が変わりますよね。そういう時期から数えれば10年も経てば大学生になっているわけで、自分自身の体験を見ても、10年なら10年という歳月の体験値があると思うんです。 やっぱり、自然というものの循環というか、循環というのはぐるぐるまわっているというんじゃなくて、それが螺旋状にいってるかどうか、そういうムーブメントとして動きとしてのイメージは置いておいて、ともかくひたすら新しいものしか出てこないというものじゃないということなんですね。つまり、今は忘れているけれど蘇ってくると。それを手がかりにしてまた新しいというか自分なりの生き方をするんだけれども、その中には何かまた持続した、極端に言えば人類史の大きな停留するものが表われているじゃないかというような、そういう大きなうねりの循環があると思うんですよ。それを歴史と言っていると。 僕は歴史というのはそういうものを認識する力だと思うんです。それは、それぞれに体験値としての時間感覚がなかったら、なんぼ言ってもダメだと思います。入らない。じゃあ若い世代には50年、100年、あるいは1000年というような時間のあれは受け取れないかといったらそれではまた残念なことですから、その道を探さなきゃならないんです。その時に、個人、本人が、さっき言いましたような、小学校の高学年ぐらいから数えても、10年といえばある体験値をしていますから、それを元にして考えてみるという手がかりにできるような、たとえば考え方、学問的な教え方っていうか考え方も、そういうところからもう一回見直さないといかんと。
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