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人と自然を考える会
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地元学をはじめよう その1

「心象図法で地元学」

(2006年9月30日(土) あかね文化センター小ホール)
講師:上田洋平

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正しい認識を妨げる「知のかさぶた」

 知のかさぶたを剥がそうではないか。こういうことも地域学が求めていることでございます。正しい選択、豊かな未来を構想するためには、正しい認識が必要であろう。その例をここに紹介いたします。

 これ、柳田國男。そればかりですが、読みますと、「10年余り以前に仕事があって、冬から春にかけてしばらくの間、京都に滞在していたことがあった。宿の屋根が瓦葺きになっていて、よく眠るものには知らずにしまう場合が多かったが、京都の時雨の雨はなるほど、宵暁ばかりにものの3分か4分の間、何度となく繰り返してさっと通り過ぎる。これが東国の平野ならば、霰(あられ)か雹(ひょう)かと思うような大きな音を立てて降る。これならばまさしく小夜時雨だ。夢驚かすと歌に詠んでもよし。降りみ降らずみ定めなきといっても風情がある」。小夜時雨が降る様子を、夢驚かすと歌の中に詠んでもいいだろう。この降り方だったら、こういうふうに詠めるだろう。風情もある。

 「しかるに、他のそうでもない土地に於いて、受け売りしてみても始まらぬ話だが、天下の時雨の歌はみな、これであった」。時雨というたら夢驚かす、みんなどこの地域でも同じ時雨の歌をうたっておる。この柳田さんは、京都に泊って初めて、これが歌に詠まれておった小夜時雨かと、実際の現実と歌に詠まれていたことが一致したのですが、それが実はどこでも受け売りで同じ歌になっている。「連歌、俳諧、謡、浄瑠璃も、さては町方の小唄の類に至るまで、とうとうとして悉く同じようなことをいっている。また、鴨川の堤の上に出て立つと、北山と西山とには折々、水蒸気が薄く停滞して、峰の遠近に応じて美しい濃淡ができる。ははあ、春霞というのはこれだな、と初めてわかった。それがある季節には夜分まで残っている。いわゆる朧の春の月となり、秋には昼半ばに霧が立って、シバフネへ下る川の面を隠すが、夜は散じて月清かなりとくるのであろう」。

 これは、歌とかの中の文句を取っているのですが、「いわば、」ここからが重要だと思うのですが、これは地域学、地元学にも通じるところです。「日本の歌の景色は悉く、山城、京都の一小盆地の風物に他ならぬのであった。ご苦労ではないか。都に来てもみぬ連中まで、題を頂戴してそんなことを歌に詠じたのみか、たまたま我が田舎の月時雨がこれと相違した実況を示せば、返って天然が契約を守らぬように感じていたのである」。私のふるさとの降り方は、どうも小夜時雨のように降らんと。なんかしょうもないなと。こういうふうに思う意識がひょっとして地域には昔、あったのではないか。

 風景でも人情でも恋でも、みんな都のものまねで来てしまった。常にその課題があって、その答案が常にあった。これは天台宗の論議とか、キリスト教の教条主義ですね。現実を見ないで教えを押し付けるということですが、これも同様だと。

 だから、「世の中にいうところの田園文学は、今に至るまでかさぶたのごとく、村々の生活を覆って、自由なる正規の行き交いをさえぎっているのである」。知るということが、実はかえってかさぶたになるということがある。私はこういうふうに考えるんです。学校で環境について、地域について、いろいろ知識として学んでまいりますが、そのために地域の現実の自然の姿を誤って見る。生活の姿を誤って見ることも、へたすればあるのではないか。

地域を知るのは体験から

 その例がありまして、ある先生が子どもたちにお年寄りと話をさせた。お年寄りと話をさせる前に、山とか人とか川とかいう文字を書いてある。で、いろいろと書いてある中で人間と関係があるものに線を引きなさいと、小学生の子どもたちに言った。ある子が、山と人に線を引いた。そして、どんな関係があるか、書いてください。すると子どもは、守る、壊す。守るか壊すか。山と人との関係は、守るか壊すか、この二元論しか書けなかった。

 それが、お年寄りの話を聞かせます。それこそ、先ほど言ったように30分か40分くらい。その後でもう一回書いてみましょうというと、ここに、「守る壊すだけじゃないなあ」。遊ぶとか、これはみなさんも多くの方は覚えがあると思うのですが、食べものを取りにいくと。こういうことが分かった。山というのは、守るか壊すかだけじゃない。もっと遊びにも行ったし、おやつがなかったら取りに行ったりもした。そんな関係があったんだということを知った。

 でも、守るか壊すかということは、実は学校で習うか、テレビで自然を守りましょう、人間は自然を壊している、守らなければいけない、そんなことが頭に入っているものですから、もっと豊かな山との関係があったことが分からないまま未来を考えるのと、山と人間の関係はこんなに豊かなものなんだよと考えるのとでは、またぜんぜん違うのだろうと。こういうようなことも、私は今、考えているわけであります。

 そうすると、今まで言っております地域とかそういうことを本当に考えるためには、学校や教科書や本で知識を学んでくるだけではなくて、今ほど申しました、地域を本当に自分の体で体験して、自分の目で見て、自分で関わって発見していく。そういうことが必要になってくる。つまり、学校では知識もしっかり入れてもらいます。これと、本来はこの体験を通じて自分たちの経験から得た身識、こういうもので足してイコール本当の常識というものができてくるのではないかと。こういうことをとにかく訴えているわけです。地域を見直すという時も、知識だけではなくて、地域の人たちが本当に体で感じたこと、体験してきたこと、経験、知恵、それに学ぶことなしには地域に学ぶといっても嘘になってしまうということで、考えているわけなんです。

 身識というものをどうやって見直して活かしていくか。自分たちが身識を得ていくか。そしてそれによって私たちが住むことがすなわち地域が美しくなっていく、そういう社会をどうやってつくっていくか。そういうことを考えているわけです。この辺が、退屈なお話のところになります。

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