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地元学を知る 「地産地消で地域の再生を」地元学であるものさがし (2006年10月9日(月・祝) 愛東福祉センターじゅぴあ)
家族の1日分の米が穫れる田んぼこれは僕の生まれた山形の山奥で、もう34年前に廃村になって、廃村になってからこれは全部潰れたんですが、僕が乗っかってるこの家だけがまだ残っています。こんな家であります。34年間雪下ろしが大変なんでありますが、がんばって維持しております。まあ、それぞれ故郷をみなさんお持ちだと思いますけども、私にとっても大事な故郷であります。若い時からこうやって雪下ろしを、一冬に何回も遭難しかかりながら、電車で仙台から山形、山形からまた私鉄に乗り換えて終点まで電車で1時間、バスで1時間、歩いて5時間の標高550mでありますから、僕ももの好きで、今でも維持しております。 そこは廃村になって誰ももういないんですが、私だけが時々通って山の手入れをしているだけなんですが、1年に1回だけ、この村に人が集まってきます。かつての村人です。東京にいる人もいます。これは小さな祠です。今この3倍ぐらいの人に増えています。孫が、お母さんの故郷がそこだって、まだお祭りだと誰かいるからっていうんで、集まってきています。1年に村人が、たった1日だけ集まる祭りであります。今も続いています。住む場所だけが、一緒に住む所だけが故郷ではなくて、心の集まる所が、僕は故郷だと思っているんです。心が集まる所。この僕の村もまだ心が集まる限りは人が通い続けて、1年に一遍のお祭りに通うんでありましょう。 そこのすぐ峠越えの所に、僕が12、3年追いかけている、小さな一反歩に満たない田んぼがあります。この田んぼが、とりわけ僕がちょっと農業なんか始めた一つの理由なんですが、ここにいつも64株から66株植えるんです。「今年はもうやらねえな」と毎年思いながら行くと、今年も植えてたりするんですよ。80歳の松田さんていうおじいちゃんです。「買った方が安いのに」と言いながらまた植えてるんですよ。で、山の標高が高いんで、一反歩あたり六俵半ぐらいしか穫れないんです。でも、やめない理由ですが、まあ、こんな山の水を集めた所、このごろ鬱蒼としてもう周りから見えないんですよ、この木が鬱蒼としちゃったと。これ10年くらい前の写真なんですが。いつも僕はバカだからこうやって、1本2本3本4本と数えてるんです。僕にとっては大事な田んぼなんです。 「この田んぼから家族の1日分の米が穫れます」、と松田さんに教えていただきました。この小さな丸い田んぼから、1日分の家族のお米が穫れます。つまり、農業というのは産業としてとらえることを僕らはあたりまえに考えていますけども、家族の食事をつくる、家族の食を得るために、この田んぼは300年続いているわけであります。こういう田んぼが私たちの村にあること、私たちの日本にあることを、僕はなんかとても大事なことだと思ってるわけです。それをキロなんぼだとか、一俵なんぼだとか、有機だとか無農薬だとか、そういうなんかこう、みんなが言うような言葉ではなく、これが家族の田んぼである、家族1日分の米がここから穫れますという。それはなんかとても、僕は「教えていただいたなあ」と思っているわけです。 だから、合理的ではないからやらない、とかですね、儲かるからやる、儲からないからやらないみたいな考え方がありますけども、人間はそれだけをものさしにして生きてるわけではないんだなあ、という。その時に大事な、家族というもの、そしてその家族が集まって暮らす場所を村と呼んだり、地域と呼んでるにすぎないんです。だから、地域とは、村とは、家族の集まりだということなんです。その家族の集まりの、みんなが思っている、共通する願いや期待や、あるいは課題や問題をどう解決し実現していくかという時に、みんなで力を合わせるのを「村づくり」と呼んだり、「地域づくり」と呼ぶわけです。
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