|
地域資源を生かした「まちづくり」事例学習(その3) 「東近江を循環・共生の大地に」地域が自立して生きる仕組みづくり (2006年12月23日(土) 愛東福祉センターじゅぴあ)
放置された山と獣害滋賀県では、サルとシカの特定鳥獣保護管理計画というのができています。ニホンザルの場合は、私はこれに関わっているんですが、生息環境の保全という章がありまして、そこでは山の側も手を入れましょうということをいろいろ書いているわけですね。それは大変根気が要りますし、時間がかかることなんですが、今日はまず一軒からでもできる一番細かいレベルの農地と山の境になっている林を伐ってみましょうというお話です。 ちょっとその前に里山の現状を見てみますと、少し奥の方には戦後スギやヒノキの植林が大変増えました。スギヒノキが悪者にされるというのが今はやっているんですが、なぜいけないのかという理由の中で大きいものは、手入れが行き届いていないから大変な問題がたくさん起きている。これが一番大きいんですね。スギヒノキそのものが悪いのではなくて、植林というのは畑のようなものですから当然手入れを続けてあげないといけません。左の写真のように間伐が行き届かずに暗くなっている場合は、当然山のけものの食べものが上の方にないということが起きているわけですね。右のように適切に草が生えた所があれば、植林といえどもいろんな動物が使えます。 でも、日本中でこういう植林は非常に少なくなっています。滋賀県内でも残念ながらそうです。もう少し里の近くには赤松の林がたくさんありました。これは燃料を採るために使われてきたから赤松なんですけれども、これは松材線虫が入ることでたくさん枯れています。枯れた後が藪になっているんですが、どうもこれはイノシシなどには好都合のようで、これを使うためにたくさん里近くに降りてくるということが起きているようです。 もう一つ、竹藪です。これも山裾を中心にどんどん増えているんですが、竹は他の木を覆い尽くして枯らしてしまいます。そうすると下が真っ暗になります。一方、タケノコは出ますから、タケノコは特にイノシシの大好物なんですね。これも、家の裏山にイノシシを寄せることになります。 昔のホトラ山を参考に木を伐ってみたらでは、昔はどうだったかというのをいろいろ教えていただいているところなんですが、これは県立大学の図書館で見つけた写真なんですけれども、56年前の朽木村の、今高島市になりましたが、くが山の様子です。これを見ると、木が生えていない所が広がっているんですね。これはホトラ山というものだそうで、草や木の切り株から生えたひこばえを刈ってしょって下ろして、昔はワラも貴重でしたから牛の敷料に使ったそうです。踏ませた後、糞と一緒に積んでおいて堆肥をつくると。そういう形で牛を介して山の資源と田んぼがつながっていた循環系の生産地の一つなわけですけれども、こういうふうに昔は家のまわり、里から見える所に木らしい木がないような所がたくさん広がっていたことが分かります。 これは、同様にホトラ山あるいは刈り干し山と呼ばれる所なんですが、これは朽木のお隣の椋川という、やはり高島市の今津地区です。これは1944年と書いてありますが間違っていまして、大正時代の写真だということが分かりました。やっぱりこのように木のない所がたくさん広がっていたんですね。そうしますと、隠れ場所がない。それから人がいつもそこで仕事をしますから、こわい。えさも少なかったと思うんですけれども、柵がないけれども人の領域とけものの領域の緩衝地帯をこういう木の少ない里山が果たしていたと考えられます。 そこで、これをモデルにあのような大規模な利用は大変ですけれど、帯状に小規模に伐ってみるという実験をしました。これは近江八幡市の島町でやってみたんですけれども、このような経過をたどりまして、竹藪は全部伐る、植林は強めの間伐をするということをやりました。ところが、その伐採地で実はその後藪がどんどん回復します。そうしますと、またイノシシが使うようになるということが分かりました。しかし、面白いことに以前のような田んぼにトタンの柵を破ってイノシシが出る、田んぼを踏み荒らすという被害は、伐採の後に大変減ったんですね。これは、伐採地にいろいろ草が出たりしたことが、すぐ農地に行こうという圧力を減らしたということだと考えられます。 他のデータでは、これはテレメトリーのデータなんですが、伐採地を中心に伐採前は赤い点が動いていた推定範囲なんですけれども、伐採の後にはこれを避けるように移動したことが見られています。さらに、明るい所を嫌うということも分かっています。これらのことから山裾を伐ることがイノシシの害を減らすためには有効であるということが分かりました。
|
||||||