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地元学でまちづくり 「ほんまに私(みんな)が主役のまちづくり」広島県安芸高田市”川根”の地域づくり (2007年3月3日(土) 東近江市八日市図書館)
共同店が誕生した背景一応「共同店の歴史と現在」という、これも私はこういうことの専門家じゃ本当にないので、沖縄大学とか沖縄国際大学とかそういった先生のいろんな資料があるんですけれど、こういった資料を参考にさせていただいていますけれども。 沖縄全域ですね、要するに離島だっていうことを言おうとしています。これが本島ですね。で、第一号の奥というのが、これですね。沖縄の果ての所に奥っていう本当に冗談みたいですけど、奥っていう名前なんですね。ここが那覇ですから空港がある所ですね。かなり遠いです。沖縄の人でも奥っていうともう地の果てみたいに言うので、道路も開通したのが40年前ぐらいですかね。1960年、4年だったかな。それまではまさしく陸の孤島なんですね。これはもう奥に限ったことではなくて、この辺の北部地域の集落というのは、入り江が入りくんでいる所に少しずつ集落があるという形で、隣の集落へも船でしか行けないというような場所がこの辺ですね。 この一番奥の奥っていう所で共同売店は生まれます。これが昭和初期ですね。「昭和初期にしては、瓦屋根の立派な家がいっぱいある」ってみなさん、沖縄の人はびっくりされます。それぐらい豊かだったんですね。奥だけ豊かだったと。共同売店が関わっているということなんですけど。 1906年、明治36年に雑貨商を営んでいた糸満盛邦(いとまんもりくに)翁、聖人のように言われてますね、この地域では。糸満盛邦氏が店の利益を村に還元するために、店を寄付し、共同で運営をすることにしたと。 もっと詳しい事情を言うとあれなんですけど、こういう陸の孤島みたいな所には那覇とか鹿児島とかから、寄留商人、いわゆる外から流れてきた資本を持った人、那覇に大きな商店を構えて船を所有して、それで貿易というか、日常生活品を持って行って、地域のものを買い集めて、またそれを那覇に売るというような商人が村の経済を握ることが多かったんですね。それに対抗するためにできたというものですね。だから、今の共同で出資というのとは最初はちょっと実は違うんですね。ある程度一人の人があるものを、やっぱりこの当時の、後にも出てきますけれど、いろんな歴史的背景がありまして、その流れに乗って、地域のものにしなければいけないんだというふうになってきたんですね。 もともと奥っていう地域はすごく結束力が固くて、沖縄の中でも独特な所なんですね。歴史的に言うと、日露戦争の直後で、沖縄では土地制度がガラッと変わる時で、伝統的な地割制度といって子どもが何歳になったらこの土地をあげるという、地域で原始共産制みたいな形ってよく言われますけれども、そういう中に急に資本主義経済が入ってくる。大変だという危機意識がやっぱりあったようですね。
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