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地元学でまちづくり 「ほんまに私(みんな)が主役のまちづくり」広島県安芸高田市”川根”の地域づくり (2007年3月3日(土) 東近江市八日市図書館)
自分たちでできることは自分たちでまず最初に、この山原船というのを自分たちで手に入れるんですね。これがその当時の、沖縄では何百年も交通手段の主役だったんですね。道路ができてからまだ何十年か、今7、80年ということなので、それ以前の何百年かはずっとこうやって暮らしてきたんだということですね。 これも出荷するものから、その当時は税と呼んでいたようですけど、今で言うと手数料ですね。それを徴収して利益を蓄えて、それを地域に還元していこうということを始めるわけですね。 『奥の歩み』っていう地域の方々が歴史をまとめた本に、「山は我々の祖先が子孫のために築いてきた遺産であり、山稼ぎをする人のみに利益を与えることは祖先の意に沿うものではなく不公平であると考えてこういうことを始めた」と。 これは当時の写真ですね。これは私の父ぐらい。私の父は65ぐらいですけど、もう山に入ってこういう薪を伐って束ねて、沖縄ではタムンと言うんですけど、ここではサバターって書いていますね。これをまとめて共同売店に持って行く。すると、いくらいくらもらえる。まあほとんど現金はもらえないんですけど、それを貯めてそうめんを後で買える、缶詰を買えるというような生活だったんですね。 それで、奥は豊かになるんですね、実は。奥共同店は実にいろんなことをするんですけれども、まず納税って書いてありますけど、いわゆる当時の村税とか県税を集落、共同店が納めるんですね。それぐらい豊かなんです。もう一人一人が税金を納める必要がないぐらい地域としての利益が上がった。で、株主配当がありました。これは今はほとんど残っていないですけれど、一部まだ株主配当している売店がありますね。 区会計並びに各種団体への補助、これは青年会とかそういったものの活動にお金を出すと。それから医療。村に一軒しか診療所ないという時代に、ここは集落で一軒診療所を持ったそうですね。で、運送業。これは最初は船を所有する。それから、道路ができてからはトラックで運送する。それから茶業。これは奥は今でも日本一早い茶摘みということで、よくNHKなんかでは季節の便りみたいなことでよく出てくるんです。で、林産物。先ほど見た薪や炭ですね。それから、精米所、製材所、発電所。 これはもうたくさんいろいろエピソード聞かせていただいたんですが、米軍の船が遭難して、半分沈んでいたものの中からディーゼルエンジンをみんなで命がけで引き上げて、それで自分たちで発電事業を始めたっていう。 それから、酒造。これも面白いですけれど、去年10月にこの本をまとめたんですけれども、この中にも当時酒蔵に関わった長老の方にお話を伺ったんですけれど、もしよろしかったら。 奥の方々はよく呑んだんですね。好きだったんですね。たとえば船の建造をして、その竣工式とかに「お祝いだ」って呑むわけですよ。その時のお酒の量がもう半端じゃないと。一ヶ月分だと思ってよそから仕入れて。よそから仕入れていたんですね、その当時は。よそから仕入れて来たら、一日で呑んじゃって、こりゃまずいぞと。共同店の仕入れを見たら、輸入額が七割が酒だったというぐらいすごかったらしいですね。これはやっぱり自分たちでやらなきゃいけないというふうになったんですね。これがやっぱり基本だと思うんですね。自分たちでできることは自分たちでやると。そういう資本が流通していくという意識をしっかり持っていたんですね。それで自分たちでできることはやろうということで酒造会社をつくるわけですね。 で、貸し付け事業。イノガキっていうのはイノシシを防ぐ垣根ですね。万里の長城みたいなすごいのをつくっています。他部落へも貸し出しています。他の集落が共同店をつくりたいという時にお金を貸し出したりしています。出稼ぎ者、これは沖縄は移民で南米辺りにもたくさん行っていますね、ハワイとか。そういった者に対して貸し出していますね。それから病気療養費、畜産資金。豚を買うっていう時にはお金を貸してあげるとか。 共同店は各地へ広がっていきます。近隣の集落でも奥にならって沖縄各地で共同店が開設されていく。戦後も沖縄本島北部地域の多くの地域で共同店は復活し、これはもう戦後の話ですね。一度戦争で全部もちろんなくなっていますんで、で、戦後も配給所として復活しているんです。
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